大阪大学大学院人間科学研究科共生行動論研究分野

お世話になっている地域

熊本県益城町

 熊本県上益城郡益城町は「肥沃な土地」という言葉にぴったりな土地だ。地下には阿蘇の水脈が流れ、ところどころから水が湧き出ている。その水を使ったスイカやメロン、柿などの果物や野菜が豊富に収穫される。特に梅雨前の 45月に旬を迎えるスイカはとても甘く、地元の人は「益城のスイカは塩をかける必要がない。」と笑って言う。旬の 45月、各家庭の冷蔵庫には必ずと言っていいほど収穫した、またはおすそわけされたスイカが入っており、老若男女問わず、高い糖度でべとべとする手を拭いながら、スイカにかぶりつく。この光景は、この町の春の風物詩である。
 しかし、 2016414日、スイカが大きく熟れているこの日に震度 7の地震が益城町を襲った。非常に大きな地震だが、まさかこの後の 16日にもう一度同じ規模、それ以上の地震がこの地を襲うとは誰も思っていなかった。スイカの出荷で忙しいこの時期、日本史上最大数の余震が起こした「平成 28年熊本地震」と呼ばれるこの地震は益城町に甚大な被害を与えるとともに、人々の心にも深い傷を与えた。
 巨大な自然の力の前に人ができることは数少ない。しかし、できることからひとつひとつ積み上げていく。それが私たちにできることであり、渥美研が歩んできた道である。
活動内容
 発震した翌日の 2016415日から益城町を訪れ、ボランティアセンターや最大の避難所となった益城街総合体育館での活動を経て、現在は安永仮設団地や馬水東道仮設団地での活動を中心に活動をしている。活動の対象には、人だけでなく被災したペットも含む

 

岩手県九戸郡野田村

 夜行バスで東京からおよそ10時間。一日一便しか出ていないバスから降りると、そこは連続テレビ小説「あまちゃん」で話題になった久慈市の駅前だ。久慈市から今度は、三陸鉄道でおよそ10分。こうして、遠い遠い岩手県野田村に到着する。
 野田村は自然が豊かな村である。ホタテや鮭といった海の幸から、松茸や山葡萄などの山の幸まで、食べ物に関して言えば、大阪に帰ることをためらうほどに充実している。そしてその食材の味をより一層引き立たせるのがのだ塩と野田村の方々のあたたかさである。野田村へ通う阪大生が後を絶たないのは、美味しい食べ物のためばかりではないだろう。
 東日本大震災の被災地といえば、南三陸、気仙沼、陸前高田などが有名だろう。それらに比べれば、もちろん本来は比べるべきものではないとはわかりつつもそれでも比べれば、忘れ去られた被災地という感が強い。
東京からも遠いし、仙台からも遠い。しかし、ここ野田村でも津波の被害を受けた方はたくさんいる。仮設住宅で、復興団地で、または、再建した我が家の中で、いまだに悩み続けている方がたくさんいる。遠く離れた大阪からだと、彼らの苦悩は、見えづらくなってしまっているのではないかという不安と闘いながら、渥美研は今日も野田村へ行く。
 

新潟県小千谷市塩谷集落

 新潟県長岡駅から、1時間に1本の電車と1日に3本しかないバスを乗り継ぐとここ塩谷集落はある。夏には緑が生い茂り、冬は雪深く身長より遥か高く雪が積もる。車がないとなかなか生活できない少し不便な場所だが、季節になれば山菜がたくさん採れ、夏には野菜がよく育つ自然にあふれた本当に恵まれた土地だ。
 ここ、新潟県小千谷市塩谷集落では中越大震災により3人の子供の犠牲者を出し、当時は全戸避難。49戸あった家のうち、色々な理由で29戸は集落を降りてしまった。
 あの震災から10年。今では19戸となり、子供もほとんどいなくなってしまった塩谷だが、田植えや稲刈りの時期になると大学生や外部の方が訪れ一気にこの集落が賑やかな雰囲気になる。震災を少ない人数となったものの、集落では「田植え交流会」や「じゃがいも掘り」「山菜祭」等の行事を定期的に行い、外部の私たちを招いてくれるのだ。
 10年が経ち震災の傷跡は一見見られないこの地域であるが、震災を機に浮かび上がった人口減少や過疎の問題、地域特有の様々な問題は10年経った今も解決されていないままである。このように関わっている外部の私たちは何が出来るのだろうか。それが私たちの研究テーマである。

 

兵庫県西宮市・神戸市(周辺市町村も含む)

 今、阪神・淡路大震災の被災地は、「かつての被災地」と呼ばれるほど、街を一見見渡すだけでは震災の痕跡を見つけることは困難だ。被災地が復旧・復興へと歩みを進めていくなかで、1995年にその萌芽が生まれ、いまや、被災地を考える上で必要不可欠となるような、大きな潮流が数多くある。そのなかでも私たち渥美研究室が着目するのは、「ボランティア」、そして、「アーカイブ」だ。
 1995年は「ボランティア元年」と称されるほど、多くの人々、特に、若者が被災地に入り、地域の人々に寄り添おうと試みた。その動きは、中越地震、東日本大震災をはじめ、その後の災害に生かされている。
 また、1995年はボランティアの一つの形として、被災地の人々自身が自らの経験を残そうとする「アーカイブ活動」が生まれた。その動きは、兵庫県「人と防災未来センター」や、神戸大学「震災文庫」などの公的なアーカイブと連動し、官民の両輪によるアーカイブのあり方を示す貴重な先例となっている。そして、東日本大震災では、そのムーブメントはより大きな潮流になり、被災地間で「アーカイブ」を軸にした交流もはじまっている。
 大阪大学渥美研究室から最も近いフィールドであり、災害復興を考える上で大きなキーフレーズとなる「ボランティア」「アーカイブ」のこれまでとこれからを見つめ、他のフィールドと関係するための大切な場である。